もう無くなってしまったお店なのでブログに書くか迷ったのだけど、すごくいいお店だったので備忘録として残しておきたいと思います。黒姫山へ居を移されるとのこと、再び温石のお料理と出会えることを期待して。

 

松本に住んでいる方から聞いて、行ってみたいと思っていた温石(おんじゃく)。誰かにおいしいと教えていただいてもなかなかすぐには行けるものではなく、いつもなんとなく時間ばかりが過ぎてしまって結局行けずじまい、というのはよくあるパターンです。だけど温石に関しては、自然と行くことが決まり、日にちが決まり、すんなりと予約も取れました。行きたいと思ってあれこれ日程をやりくりしても臨時休業とか満席とかでなかなか縁のないお店というのもあるなかで、さらには泊まりというハードルもあったなかでご縁があってよかった。

温石は松本市街から少し離れた住宅地の中にありました。ホテルからぶらぶらと15分くらい歩き、グーグルマップを見ながら細い住宅地の路地へ。このあたりのはずなんだけど、とキョロキョロすると、すごく目立たない感じで、それでいて妙な存在感を放つ温石が。

 

住宅地といっても、新興住宅地ではありません。まだ日が短い2月の夜7時、煌々と明るいコンビニやマンションのない一角はひっそりと静かで、街灯だけがぽつぽつと道を照らしていました。映画とかで見る昭和30年代とかってこんな感じかも。「温石」という映画のセットに入ってしまったような異空間が、路地を入ると現れました。

 

その日予約していたのは私たちだけだったようで、おかげで室内も存分に観察でき、そして写真も撮ることができました。

 

飲食店については、おいしければ外観や内装など構わないし、店主が多少外見に無頓着でも気にしない、という意見もあると思います。だけど私が思うに、一事が万事。一輪の花を飾るとか、柔らかく使い込んだリネンのナプキンを用意するとか、清潔な身だしなみでサーブすることは、お客さんの視線を想像して初めてできることです。そしてそれはそのまま料理にも反映するのだと思います。

かといって「おしゃれなお店にしました」というおしゃれさは、なんだか居心地が悪いと感じるようになりました。昔はそういうお店、好きだったのですけどね。そうではなくて、考えるべきはどうしたらよりおいしく料理を提供できるか、に尽きると思います。そのための工夫や心配りが重なって、結果としてそのお店にしかない内装やサービスになり、それに共感できると、自分にとって居心地がよかったり、感覚や知覚を刺激してくれるお店になるのだと思います。

その意味では温石は、料理の味に集中できる空間でした。素敵な空間とはなにか、素敵っぽいとの違いはなにか、偽物と本物とは。もちろん温石は、私の中で本物。だからこそ、世の中にある偽物との違いが際立つのかもしれない。

 

温石を忘れないようにブログに書いておこうということで今こうして書いているのですが、行ったのは1か月以上前のことなので、写真を見てもなんの料理だったか覚えていないものもあります。だけど覚えていることをいくつか。

温石は完全予約制のおまかせコースのみ。コースの最初に出てくるのは、大抵ちょっとした前菜というか、つき出しだと思うのですが。温石で出てきたのはなんだったと思いますか?絶対だれも正解できないと思います。

 

 

答えは、炊きたてのごはん。炊きたてのごはん!はっきり言ってびっくりしました。サービスを担当されている奥さまがスッとお膳にお椀を差し出してくださり、当然のようにきっぱりと、炊きたてのごはんです。と宣言してくださったとき。やられたーっと思いました。そうきたか。そしてこれがまた本当においしかったのです。まだ他の料理を食べていないから、お米の甘さがよくわかる。コース料理のひと品目はこれから続く料理の試金石というか、すごく重要なものだと思うのです。そこに炊きたてのごはんを持ってくるという決断がすごい。

 

温石の料理は素材の味を活かしたシンプルな料理ではなく、素材の味を活かしつつすごく手の込んだ料理でした。定番のメニューがそのままでは出てこない。茶碗蒸しにはこの季節の白菜餡がかかっていたり、お造りの上にサクサクパセリが乗っていたり、締めのごはんには生ハムと山芋が。佐久の鯉は初めて食べましたけど、鱗をパリパリにしてありました。味、食感、見た目の美しさ。すべて緻密に計算された仕事だと感じました。

 

 

ゆっくりお酒を飲みながら、10時までくつろいでしまいました。夜のコースは8,000円。お、いい値段。と来る前までは思っていたけど、温石でいい時間を過ごしたあとには、お値段以上の満足を感じています。いただいた領収書1枚にしても、ちゃんと温石を表現しているの、すごいこと。

帰り際に、料理人のご主人が挨拶に出てきてくださいました。少し話していると、なんと2月末でお店を閉じてしまうのだとか。せっかくまた来たいお店に出会えたのに。だけど見方を変えると、ぎりぎり間に合ったとも言える。いつもならもたもたしているところを、今回はさっさと来ることができたのが本当によかった。たった1回の来店ですが、温石を知っているか知らないままでいるか、その差が人生に影響する、かもしれない。