いやー、すでに寒いです!今日の服装は、長袖2枚重ね、薄手のダウンベスト、ジーンズ、ウールの靴下、レッグウォーマー、フリースのひざ掛け。今年はなんだか、寒い冬になりそうな予感‥。

 

秋晴れの気持ちいい日に、尖石(とがりいし)縄文考古館に行ってみました。八ヶ岳山麓には縄文時代の遺跡がたくさんあり、ザックザックと土器やら埴輪やらが出土するとは聞いていたのですが。ほんとにすごいですね!まずその量にびっくり。あらゆる大きさ、装飾の土器がゴロゴロ置いてあります。ショーケースに入っているものもあるけど、大きいものは床に置いてあったりもする。すぐそこにあるので、触ろうと思えば触れる距離感です。たぶん子供とかは何気なく触っちゃってると思う。土器って教科書で見るような貴重な出土品だと思っていたので、このゆるやかさに拍子抜けしました。縄文らしくていいと思います。

小学校のころ、ねじった縄を土器に押し付けて模様をつけるから縄文土器と呼ぶ、と習いませんでしたか?たしかにそれは事実で、縄の跡による装飾の土器もあるのですが、それよりももっと精緻な模様の土器に驚きました。尖ったもので描きつけたような線の集合や幾何学模様、上部が大きく不安定で複雑な造形、人や動物を象った模様や造形、黒曜石などを混ぜ込んだ生地など、本当にバラエティ豊かなのです。そして細かくて完成度が高い。

 

私たちは歴史を習うなかで、どこか縄文時代は原始的で洗練されていない、文化的に遅れた時代だと思うようになっている気がします。実際私も、縄文時代から進化して弥生時代になり、さらに進化して古墳時代になり、というように、歴史が進むことが進化なのだと思っていました。だから現代は過去のどの時代よりも優れた文明社会ということになる。そしてそれを作り上げている私たち現代人は、過去の時代の人類よりも優れているはず。これって言葉にすると驕りを感じるけれど、心のどこかで少なからずそう感じているということを、明確に否定できる人は少ないのではないかと思います。

だけど人の脳の容量は、縄文時代から変わっていないらしいです。つまり私や家族や友人や、他のみんなと同じだけの情緒が縄文人にもあったのですよ、当然ながら。そりゃああのエモーショナルな土器を作るはずですよ。現代を生きる私たちと何ら変わらない人間が、縄文時代に生きていたのです。星が綺麗だとか、子供が何歳になったとか、どこの木の実がおいしいとか、こんな模様を付けてみようとか。

実際のところ、狩猟採集が生きていく手段だったのですから、その点においての感受性は私たちとは比べものにならないくらい鋭かったのだと思います。例えばどのきのこはおいしくてどのきのこには毒があるのか。鹿の、イノシシの、ウサギの、キジの、狩りに適した時期や時間帯はいつか。急所は。狩りの道具はどのように作れば効果的か。またその加工は。怪我や病気をしたときに用いる薬草はどれか。冬の間に飢えないための食糧の保存は。

縄文人がコンピューターを扱えないのと同様、私たちは縄文人が当然のように扱っていた情報、知識、技術を扱えません。ではどちらが文化的かと言われたら、それは答えようがないと思うのです。

 

歴史を年表で表すと、右から左へ、もしくは左から右へ、ひとつの直線になります。この直線を追うことで、なんだか時代が進むにつれて私たちも進化しているように感じます。サルからヒトへの進化の図みたいに。だけど実際には時代の流れは直線ではなく、渦巻き状のスパイラル、螺旋なのではないかと、最近ふと考えます。蚊取り線香やかたつむりの殻みたいに平面なのか、螺旋階段や朝顔のつるみたいに立体なのかはわかりませんが。

そうだとすると、縄文的な時間グループに再び回帰する未来があってもおかしくないし、そしてそれは同時にまったく同一地点ではなくちょっとずれている分(螺旋階段でいう同じ地点の上下に立つようなイメージ)、縄文時代をそのまま繰り返すのではもちろんなく、今までの時代に学ぶことができるのです。そう考えると、螺旋は平面ではなく立体に近いかもしれません。

 

ところでリープフロッグ(一足飛びのカエル)というアイデアをご存知でしょうか。先進国が先進国と呼ばれるようになったのは、環境への負荷をかけ続けながら茨の道を進んできたから。地球の資源を使いまくり、水や空気を汚しまくり、それによってたくさんの生態系が壊されました。その結果いまの発展があるのですが、発展途上国と呼ばれる国々も同じようにこれから発展するにあたり、必ずしも同じような茨の道を歩む必要はなく、すでにすべてを経験した先進国の知見を使って一気にジャンプすればいいという考えです。同じわだちを踏むことなく、つまり新たに環境を汚染することなく、途中の紆余曲折をすっ飛ばして現在の技術にリーチできるということです。

これは都市と地方の関係にも当てはまるのではないかと考えます。都市が都市たるために犠牲にしている生活環境の悪さや人口過密を経験することなく、今となっては都市にいるのと同じ情報にアクセスできる地方。その地方が都市的なツールを持ったまま螺旋的な意味で縄文に回帰するということは、ここ八ヶ岳ではとても自然なことですし、そうなれば最強の田舎だと思うのですが。